愛知県海部郡の蟹江小学校に赴任をして、5年間小学校の教師をしていました。でも、そのうち1年間は、産休と育休をとって休んでいたので、教師として働いていたのは、実質4年間です。
結婚してまもなく、小学校では風疹が流行りましたが、まさか自分も風疹にかかったなどとは思いもよりませんでした。しかし、生まれてきた子どもに障害があり、原因が妊娠中の風疹感染だということが、後になって明らかになりました。
子どもは入院を繰り返し、ついには心不全を起こして死にかかったので、学校づとめもこれまでと退職しました。その後11ヶ月にわたって、名大病院で入院生活を送る子どもに付き添いました。
子どもが3歳近くになって、ようやく退院できましたが、その後は聾学校幼稚部、肢体不自由児訓練施設へと通う毎日でした。3年後に夫が岐阜県で法律事務所を開設することになり、名古屋市から可児市へ転居しました。息子は関市にある養護学校に入学したので、私は12年間車で送迎をしました。
障害児を持って若い時には、涙したこともありますが、息子には「どの子も発達の可能性を秘めている」ことを教えてもらいました。亀よりのろい歩みでも、必ずその子なりの発達をするものです。