東京都大田区にて、会社員の次男に生まれました。1953年の二月生まれです。父が勤めていた会社の社宅で、「三歳上の兄が出産に遭遇して心配するなかで、誕生した」と後年母から聞きました。
この1952年、1953年という時代は、平和と民主主義をもとめ、暮らしと人権の確立を求める国民運動が広がったときです。国民の各層で大衆的な運動組織や団体が全国的に結成されました。中小業者の営業と利益を守る全国商工団体連合会(民商)や新日本婦人の会、全国民主医療機関連合会などが次々と生まれてきました。
私の人生の歩みと軌を一にして・・・
六歳まで大田区上池上の地で育ちました。当時の大田区には、畑が周囲にあった様です。社宅の南向こうに市場マーケットがありました。入り口にはパンやさんがあり、その店では10円のコッペパンに5円のジャムか何かをつけて売ってくれたのを記憶しています。当時私の生き甲斐だったようです。東京の思いでは、おやつにコッペパンを食べること、一度だけ台風の大雨で床上浸水をし、兄が「避難した食卓から転げ落ちて、泥水に落ちた」ことでしょうか。
就学前の三月二十日ころ、父が岐阜工場へ転勤することになり、私と祖母・母・兄との四人で岐阜県可児町(当時)まで急行列車にのって(荷物とは別に)引っ越しました。その時、まだ徽章のついていない新一年生の帽子を列車の窓から顔をだして風に飛ばされてしまい、おお泣きしたことを思い出します。もうひとつは、上池上幼稚園の卒園証書をもらえなかったことでしょうか。
可児町立土田小学校に入学しました。明治5年に学令が出され、明治6年に伝統ある土田小学校がつくられました。私が入学した昭和34年は、校舎が増築され、それは真新しい平屋の校舎でした。その年の秋に、あの伊勢湾台風がこの地を襲い、我が家(社宅)をふくめ友人達にも大きな被害を出しました。6年生の昭和39年には土田小学校に初めてのプールができました。平成13年にこのプールは役目を終え、それに代って有害紫外線対策の大きな日よけつきのプールが新築されました。土田小学校には感慨深いものがあります。